魚町
 青柏祭のでか山を担う山町の一つとして知られる魚町です。魚町は小丸山から海に向かってまっすぐに伸びる町で、埋め立てが進む以前は海にも面し、大正時代の地図には魚町桟橋の存在が確認できます。戦国時代までは小丸山に町民が崇敬する気多本宮がありましたが、天正17年(1589年)前田利家によって明神野に移されています。
『鹿島郡誌』によると畠山時代、この町から殿様へ魚類を差し入れていたために魚町という町名になったとあり、また加賀藩時代にも生魚の取扱いを許されたのはこの町だけだったとあります。また、畠山氏より税金を免除された謝礼として曳山を献上したともあり、これらの伝承がでか山畠山時代起源説の根拠の一つとなってるのではないかと思われます。魚の専売については『能登志微』に天正14年『1586年)利家発給の文書の写しが載っているそうです。この文書が実際に存在していたのだとしたら、魚町の起源を畠山時代にさかのぼらせることができますが、現存しないので何ともいえないところです。また同じく『鹿島郡誌』に天正13年(1585年)大森近江吉長発給の青柏祭再興を請い許された旨の古文書の写しが載っていますが、これも原本が残っていないのが残念です。ただ気多本宮が小丸山にあったことは確かですので、魚町も一本杉町と同じように気多本宮の門前町として生まれ発展したのでしょう。
江戸時代の町肝煎には安用寺屋近右門、本七尾屋勘右衛門らがいます。













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