−亡き子、弟を想い、元禄の世を生きた俳人−



 大野長久

 元祖塩屋藤左衛門は85歳の高齢まで生きたが、晩年まで男子には恵まれなかったようで、大野屋六左衛門の子、五郎兵衛を養子にとって自分の跡継ぎとした。この藤左衛門−五郎兵衛の系統が塩屋五郎兵衛家として代々塩屋一門の宗家となった。宗家であるが故に、五郎兵衛家の代目は藤左衛門を初代、五郎兵衛を二代としてとして数えている。
 最近、五郎兵衛家の三代目塩屋五郎兵衛と元禄期(1688年〜1703年)の七尾の俳人大野長久が同一人物であるということが判明した。長久は細流軒と号し、元禄期の七尾俳壇において、『珠洲の海』の勝木勤文や『能登釜』の菊池提要と共に中心的な役割を担っていたと思われる人物である。当時、既に中央では金沢も訪れた松尾芭蕉の蕉風の俳句が主流となっていたのだが七尾俳壇では依然として松永貞徳(1571-1653)を祖とする貞門派が主流であった。長久は弟塩屋儀左衛門(大野宗無)、長男塩屋宗五郎(大野良長)とそろって俳句をたしなむ俳句一家の長であったが、弟も長男も早世してしまったので、年若い従弟を養子にして五郎兵衛家の跡継ぎとしていた。長久はそのやりきれぬ悲しみを俳句に打ちこむことによって昇華させたのであろうか。元禄13年(1700年)長久は俳書『欅炭(くのぎずみ)』を上梓しているが、その中で長男と弟を想いつつ二人の生前の句を載せている。おそらく共に各地の名勝を旅した時の句と思われる。長久はそれらの句の前後にこんなことばを残している。


 
過し此愚子にわかれて、
年月へたてぬれとも、わす
るる間なき悲しみの中に、
せめて書き残したるすさひを
爰(ここ)にのせて、なきあとの
しるしにもやと

    (略)
   
児におくれたる人のもとへ
なけきたる洟(なみだ)の渕の瀧津瀬は
余所にきくさへ袖はぬれけり
右の愚作は亡人の書置きしを、
そのまま拾ひ出て、ここにのする
ものなり。誠に老のかなしひに
たへぬまま、人の笑草ともなりぬ
へし。その道は猶うとうとし
けれは、よしあしや。
 
 

 まことにこれが長久の正直な気持ちだったのであろう。元禄の世、七尾で子に先立たれた人生を六十余歳まで生きた一人の俳人の姿が目に浮かぶようである。しかし、子や弟の死を嘆きつつ過ごした晩年であったのだろうけども悲しんでいてばかりいたわけではなく、長久は六十歳を過ぎてからも若い俳句仲間である勝木勤文を道連れに京へ俳句の旅にでるなど俳句人生をとことん満喫していたようである。(長久に限らず江戸時代七尾の商人の中には俳句の旅と称して日本各地を旅したものが少なからずいたようである。)商人塩屋五郎兵衛としての長久については史料がないので全く分からないが、たびたび俳句のために旅にでたり、俳集を出版したりなどしていることから、かなり裕福な商人であったと思われる。それでは、長久の俳句を数句紹介しておく。



二またや股(モモ)迄渡る御祓川     
  

峰の花遠くて近し七まかり


妻恋や我も寝させぬ猫の声


法の花七年過ぬあなかしこ


世の中にいきてはたらく桜かな


独り来て一人戻るや山桜



 『俳諧三年草』

 長久の死の三年ほど後の宝永元年(1704年)、孫である大野亀助の主催で『俳諧三年草』が上梓されている。題名からもわかるように長久の三回忌をとむらう趣旨で上梓されたようである。長久の師晩山が跋を書き、亀助は「みつから幼稚にして何のあやめもわかねと、常に愛せられし恩を思へは、一つほかなしく、せめてなきあとの形見草を拾いて、三とせをとむらふ物なり」と序を載せている。先の『欅炭(くのぎずみ)』に「孫をもふけけるに」と題した句もあるように亀助にかけられた祖父長久のの偏愛は大きなものであったろう。その愛を受け止めて亀助は俳人岩城長羽へと成長する。 











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