印鑰神社(明治42年・1909年発行『七尾町誌』より )


印鑰神社(大正5年・1916年発行『七尾町誌』より )
府中町に鎮座する印鑰神社です。2枚あるうち、上が明治42年(1909年)ころ、下が大正5年(1916年)ころの写真です。
神社のすぐ裏は海岸となっていました。浜通りの海岸線が埋め立てられ荷揚げ場が完成したのは昭和15年(1940年)だそうです。
この神社の歴史について少し述べます。印とはハンコ、鑰(ヤク)とは鍵を意味します。能登国の成立は奈良時代の養老2年(718年)、越前国を分割して誕生しました。しかし、しばらくして越中国に併合されてしまいます。この頃越中国国司だったのが大伴家持で、七尾や中島巡行しています。天平宝字元年(757年)再び独立を果たし、能登国の歴史が始まります。古代の能登国の役所所在地、国府は古府辺りにあり、役所である国衙の役人は朝廷から与えられた公印と倉庫の鍵を管理していました。印鑰神社とはその印と鍵を祀った神社のようです。由緒によると大同年間(806年〜810年)に兵火によって焼けてしまい、避難のためにご神体を石櫃(いしびつ)に納めて土中に隠して埋めたそうです。そして、数百年が経ち能登が前田利家の支配の下に入った後の文禄年間(1592年〜1596年)に当時の町奉行三輪藤兵衛が神託によって赤間田(神明町のあたり)から掘り出して印鑰神社を再興しました。大手町、府中町入合浜、を経て文政8年(1825年)に現在地へ移転して今日に至っています。青柏祭のでか山三基のうち府中町のでか山はこの神社の氏子府中町の町衆を中心に維持されてきました。












Copyright (C) 2007 All rights reserved by 七尾古写真アーカイブ